存在論的な軽さについて

桑名秒衣子は、これまで二つのシリーズを並行して制作してきた。「Windows08」は、西洋の教会建築にみられる豪奢な窓枠を模したレリーフ状の作品だが、その内側に例えば葛飾北斎の「諸国滝巡り」の滝の図版が挿入されているように、作品内で西洋と東洋の様式的な融合が試みられていた。またテープルチェアやティーカップ、樹木といった既製品や自然物を梱包用
緩衝材に包み込み、それらを型取る「Floated」においては、加えて陶磁器の上絵付けに使用される転写シートが表面に装飾的に施されることで、折り重なるようなイメージの重層が生じていた。

それら作品に顕著にみられるイメージの撹乱は、「あなたの見ている、知っているソレは、本当にソレであるのか?」という作者の言葉にあるように、私たちが日頃、現前の事物をありのままに知覚できていると思い込んでいる、無自覚な認識行為への根源的な疑いが背景にあるといえるだろう。二つのシリーズにみられる制作手法からは、既存の物質に対する認識を彫刻
作品の制作や鑑賞を通じて改めて問いかけようとする桑名の意志を、少なからず感じさせる。

そしてそのような問題意識は、インターネットや携帯電話などの情報端末機器の発達によって、私たちがいつどこにいても膨大な量の情報を受け取らざるをえない生活環境に起因しているようだ。「Floated」のシリーズ名が示すように、時間や空間を無化しながら生成され、氾濫し続ける情報によって構成される世界において、私たちは自身の確固たる居場所を喪失し、あたかも中空を浮遊しているような奇妙な身体感覚をもちえている。そのような実存の失調について、かつて M.ハイデッガーは1953年にミュンヘン工科大学で行われた講演「技術への問い」の中で、科学技術の本質を人間がある目的を果たすための手段ではなく、むしろ技術によって「人間のほうが自然エネルギーを開発するように挑発されている」(註)と指摘した。そして、人間と技術の主客関係の転例をハイデッガーは、「集-立(ゲシュテル)の支配」と述べていたが、桑名にとっても同様に、主体としての作者とは抑圧される対象でしかなく、むしろ制作手法が作者を支配することとなる。このことは、制作工程における窯内での高温による亀裂や釉薬の変色などの生成変化が、作品の成立のために不可避であることからも明らかであろう。その意味において作者とは、常に形態の決定に対して圧倒的に受苦者であるといえる。

過去の芸術作品の図版や装節の引用、既製品の流用による組み合わせを形式的要素としているために、これまでの桑名の作品は必然的に1980年代以降広く知られることとなったサンプリングやリミックスの手法を用いた作品との近親性を、強く感じさせていた。しかし、近年の作品内においてその組み合わせはより複数化され、これまで帯びていたシミュラークルとしての性質は、ここにきてある捻転を生じているように感じられる。セラミックで成形された虎が、四肢や尾にソックスを履いている << StuffedObject “Tiger” >>や、機番材に買われたピーナス優の足下から鋭い爪を歌かせている <<Stuffed Sculpture “Venus de Milo”>>は、作品内の複数性が活性化されたがゆえのキメラとしての彫刻といえるだろうが、引用の不確かさがときに鑑賞
者を置き去りにするような感覚を生じさせもした。このことも、先にハイデガーが示した作者と技術の関係の転倒と、おそらく無関係ではあるまい。悪観にも似たキッチュな作品からは、作者があたかもリセット可能なゲームのプレイヤーであるような、存在論的な軽さを強く感じ
させている。

そのような存在論的な軽さを備えた桑名の作品について、1965年にクリストファー・アレグザンダーによって発表された論文「都市はツリーではない」は、一つの示酸を与えてくれるかもしれない。このアレグザンダーによって提唱された集合論を援用した都市デザイン論では、ツリー/セミ・ラティスという概念によって都市の構造的な分析がなされ、後にそれは「パターン・ランゲージ」によるシステムの生成の方法論へと発展していくこととなる。そこでは、当時の文化人類学や発達心理学、生成文法に代表される言語学を参照しながら、都市の部分要素の集合である「パターン」(表層構造)の抽出を通じて、それを構成する普遍言語(深層構造)の探究が目的視されていた。そこでは構成要素の交換可能性の高まりがもたらす、複雑な関係を備えた構造体の存在が想定されていたといえる。

しかしながら、桑名の作品内の構成要素の組み合わせは、断片としての並列的な部分集合というよりもむしろ、系統樹のような樹状の関係性を備えていることにこそ、その意義が見出されるべきであろう。例えば、桑名が語る犬のぬいぐるみに履かされたソックスの逸話のように、それは交換可能な構成要業でありながら、深層構造へとつながることなく、むしろ表層に留まろうとする。言い換えるならば、作品は表面の亀裂などの生成変化や、イメージの重層性、装飾的な意匠の引用に限らず、組み合わせの関係性においても常に表層に停留することによって、作品の構造を規定している。そしてそのことはつまり、表層それ自体が彫刻のシステムを生成する可能性を、発名の作品が示しているとはいえないだろうか。

註 M.ハイデッカー『技術への問い』(関口浩訳9平凡社・2009年・p,28
森啓輔企画 vol.3 彫刻、何処でもない場所のカケラ
桑名秒衣子My Phylogenetic tree 図版より

From Book of
The plan of keisuke mori vol.3
Sculpture, a fragment in the place that there is nowhere
KUWANA Saeko My Phylogenetic tree
Exhibition /June 17 (thu) – 27 (sun), 2010 closed on June 23 (wed)

著者:森啓輔 もり・けいすけ
1978年三重県生まれ。専門は美術批評、日本近現代美術。現在は千葉市美術館学芸員。
掲載元:森啓輔企画vol.3彫刻、何処でもない場所のカケラ 桑名紗衣子 My Phylogenetic treeハンドアウト
発行:switch point